ポストモダンの思想〜20世紀後半を顧みてみる

ジル・ドゥルーズを中心に

les lectures des texes de

deleuze 

〜現代思想の基本の本棚


現代思想のさまざまな基礎文献を読みながら21世紀に生きる我われにとっての本当に必要な知性について考えるHP

 

我々にとって、現在というものがどのようなものであるかを、問うならば差し当たって、「冷戦体制以降のグローバル化の時代」ということが出来よう。私自身の定義によれば「もはや戦後ではない」ということは「冷戦終結」後の戦後体制の終結を指すと思う。 現代思想と一般に言うところのものは、ヨーロッパの近代普遍的思想の古典的思考の可能性としての「マルクス主義」、可能な選択肢としての社会主義という思想上における賭け金の、その行方を、世界史上の上の出来事としてのソビエト崩壊とともに見届けてしまった後に、我々の現在に答えるものとしてあるべきものと思われる。 ここに言うポスト・モダンという呼称は、古典的な近代啓蒙思想の基本的な公準、前提的な枠組みを超え出て行くものとして、構想された思想であり、20世紀の後半において特にフランスにおいて発生した思想を指す。また近代主義思想とは、18世紀ヨーロッパに起源を持つ思想であり、19世紀前半において哲学を完成したとまで言ったところのヘーゲル、それに19世紀後半まで生きたマルクス主義をも含めた、19世紀の哲学の影響下からようやく逃れ出て行った、20世紀の実存主義、論理実証主義までを指す。 1980年代に入って、日本でブームとなった「フランス・ポスト・モダン」を俗に「ニュー・アカ」などと言ったが、フランスでは、マルクス主義のドグマ化した理論的公準からは、あえて離反したところから始めた、思潮が成長した。思想的構築としてのインフラを作ったドイツは、戦後分断国家となり、わずかにナチスを逃れたフランクフルト学派のなごりしか残さなかった。 21世紀にいるわれわれが、ある種の強迫観念的な教条的「マルクス主義」を論じなくてすむようになった現在において、ヘーゲル以降を強く意識し始めた、ポスト・モダンの論陣をはった哲学者ジル・ドゥルーズの著作を中心に、ここで検討してみたい。

 

ギリシャ哲学以来の「哲学の総括」(ポール・リクール)としてのヘーゲル哲学の体系はおよそ網羅的であって、それゆえもはや全ての哲学的問題は、世界を完全に知的に包括しうるものとみなされた時代が長く続き、その後の哲学を学ぶものにとって、「哲学の終焉」ということが主調となった時代があった。マルクス主義への失望のあとの時代に、進取の志を掲げた現代フランス哲学が、その突破口を開くと看做され、多くの論者の間に、思潮ブームを呼んだ。  こうした「哲学の終焉」という状況について、その突破口を開き、古典近代思想と決別し哲学の再開始をすることが可能になるとすれば、それは当のヘーゲルへの痛烈な批判者として現れたニーチェ哲学の徹底的読解に依拠することによって、それを不可欠なファクターと看做しつつ「ポストモダン」の哲学はそこから再出発しようとするのである。

ニーチェ哲学の「あらゆる価値の価値転倒」の試みは、哲学に意味と価値を系譜学的に導入し、その観点から哲学自身を根底的に見直すことを迫り、「知」のありようを広範囲にわたって検討しなおすことを哲学に課すことになる。これを積極的に受け入れたことからフランスの現代思想が生まれたのである。 M・フーコーとG・ドゥルーズがその編纂に携わったフランス語版新版ニーチェ全集の出版が、その基礎的地盤を作ったといぅことが、それを傍証する歴史的事実である。 ギリシャ以来の哲学の集大成としての古典近代思想との徹底的な対質が、おしなべて「ポストモダン」の論者がニーチェ主義に立つ限り、「反プラトニズム」(プラトン中期のイデア二世界説への批判)を帰結し、共通するところの標榜する論調であるということは、古典近代思想に対するポストモダニズムの挑戦が、永く西欧近代を支配してきた、哲学史全体に対する挑戦でもあるのである。

「資本主義と分裂症」はマルクスに言及しているのが、いささか古典的に見えるが、明らかにポスト構造主義以降の立場をとり、全く未見のパースペクティブを開く。 本来ニーチェ的でありたいと望んだドゥルーズは脱根拠化としてのポストヒューマニズムの可能性を探ろうとする。

 

Copy Right All Reserved HIDEKI WATANABE 2018

 

inserted by FC2 system